学校教育は本当に教育なのか?
教育というものを真面目に考えてみると、人によって定義が違うのではないかとさえ思えてくる。
国語辞典には、どの辞典にも概ね次のようなことが書いてある。
「社会生活に適応するための知識・教養・技能などが身につくように、人に教え育てること。また、それによって身に備わったもの。」
人に教え育てるだけで、それ以上のことは必要ないようなイメージ。
社会生活に適応するための知識・教養・技能などが身につけることができたら、引きこもってもいいのか?
社会生活に適応するための知識・教養・技能などが身につければ、それで終わりか?
と言いたくなる。
学校に行っていない子ども達と30年近く一緒にすごしてきて思うことは、身につけるだけなら、学校なんて意味がなくなってしまうことは、よくわかる。
実際、これまで関わった1000人以上の不登校の子ども達は、ちゃんと社会生活を送っている。ということは、学校に行かなくても教育は受けられるし、簡単にとって代わられるようなものであれば、何の意味もないのではないか?
国がお金をかけて教育をするというのは理解できる。国をしっかりと守るためには、教育が必要であることも理解できる。
だけれど、それが学校でなければいけないかというと、今の学校なら、学校でなくてもいいのではないかと言いたくなる。
なぜなら、子ども達が行きたがらない何かがそこにあるから。
学校が、この日本という国を愛するということを教えていると聞いたことはない。自分の国を愛せない国民なんて、国民とは言わないのではないか?
国旗を掲揚し、国歌を歌わない国がどこにある?自分の国を愛していない国民がどこにいる?
サッカーのW杯やオリンピックの各国の選手を見ると、みんな大声で自分の国の国旗に向かい、国歌を歌っている。この光景を、もしもおかしいと思うのであれば、そのこと自体がおかしいと思うのだが、そうは思わないのだろうか?
人には得手不得手が必ずある。体育が得意な子どもがいれば、社会が得意な子どもがいる。家庭科が好きな男の子がいれば、技術が好きな女の子もいる。
左利きの子どももいれば、右利きの子どももいる。全部同じようなことではないか?
それぞれの良いところを伸ばして、お互いを支え合えるような人間関係を作ることを学び、実践すればいいのではないか?
私は少なくとも、教員養成系大学の大学院まで学び、教育学修士という学位を持っているし、学校現場でも教えた経験がある。だから、学校教育の名目上の目的などということは理解しているつもりである。
その上で、民間人として、今の学校が言う、教育、とは何だろうか?
子ども達に、明確にその答えを言ってみてほしい。
なぜなら、子ども達が受けているのだから。その答えを少なくとも教壇に立つ先生方には、はっきりと持ってほしいし、子ども達に示してあげてほしい。
私は偉そうに言えるような人物ではない。本来なら、こんなことをブログのような形で書くことすら憚られると思っている。
そんな私だから、私がしていることは、はっきりと教育ではないと思っている。
あくまで学力をつけることであり、心を元気にすることであり、自分の靴をそろえ、元気よく挨拶をし、周りの人への温かい心配りを忘れないようにすること、ただそれだけである。
ただし、必ず結果を求める。教えて終わりではない。
結果が出ていないものは、やっていないのと同じであると思っている。
だから、子ども達が元気になっていってくれていると、思っている。