今からもう30年以上前のことです。
私は大学生になって塾講師になりました。初めて生徒の前に立ったのは、中学2年生でした。
それ以来、ずっと中学生・高校生を中心に教えてきました。
私は今も小学生も教えていますが、正直、あまり好きではありません。
中学受験を考えている小学生の授業は特に好きではないのです。
もちろん、教えるときは真剣に教えています。私の授業は厳しいので容赦はしません。やる以上、かわいそうなくらいに徹底的にやります。
ところが、やりながら、かわいそうだなあと思っているのです。
ご存知ですか?
中学受験の問題は、高校受験の問題よりもずっと難しいことがあるのです。
特に算数や理科は、今、その問題をわからなければいけないか、と考えたときに、正直今はいらんだろうと思うのです。
中学受験用の問題集に、高校受験と全く同じ問題が出ていることなど、当たり前のようにあります。
ご存知の方も多いと思いますが、数列の問題など、高校2年生の数Bに出てくる等差数列や等比数列の公式がそのまま出ていることなど、ごくごく当たり前なのです。
それを無理にやらせて、どうするのか、私には納得がいかないところがあるのです。
なぜなら、柔らかく豊かな発想することができるようになる、なんて期待できないからです。
中学受験は、出来るだけ多くのことを記憶して、本当に詰め込めるだけ詰め込んで、対応するものを詰め込んだ中から引き出す、これしかないと思うのです。
受験というもの自体が本来そうなのですが、小さい頃からそういうことをしなくていいのではと思うのです。
もっともっと自由な発想で、「お前、大丈夫か?」くらいの発想があっていいと思うのです。
まだ、何をしたい、どうしたい、どんなことが好き、どんなものを大切にしたい、そんなことを肌で感じで、考えて、人との比較でなく、あくまで純粋にその人のいいところを見つけて、お互いを讃えあって。
そんな子ども時代があるからこそ、本気で勝負できる時に、自分というものをもち、絶対に「自分に負けない」という覚悟で、一所懸命に頑張れる(我を張れる)のだと思うのです。
文部科学省が、「主体性、多様性、協働性」を重視すると、わざわざ入試改革で言わなければいけないのが今の日本です。
主体性=自分で責任を持ってやる
多様性=いろんな考え、立場などを受け入れる
協働性=共に働く人どうし、お互いを支え、協調して働く
私はこのように思っていますが、そんなことをわざわざ言わなければいけない国になったのです。
子ども時代に、何かをやらかして近所の人に怒られ、やったことは全て自分の責任だと自覚していくことになったり、いろんな友達と一緒になって遊んだり、勝負事なら勝ったり負けたりして、その中で一緒にやったり、困ったら助けてもらったり、助けたり。
そんな中で培われるものが、主体性、多様性、協働性ではないのでしょうか。
それを奪ってまで、受験勉強させることが本当にいいかどうか、私にはわからないのです。
だから、小学生の授業は最も厳しくやっています。
なぜなら、
授業を通して、やらされているのではない、自分で選択していること。
人と比べるのではなく、自分がどうするのか、どうしたいのか、どういう結果を得たいのかを考えること。
そして、共に学ぶ人を尊重し、お互いに切磋琢磨すること。
そんなことを伝えたいと思うからです。
ちなみに、中学受験こそ一番理解しておいてほしいこと。
それは合格することが目的ではなく、入ってから、その学校でついていけることが一番苦しい、ということなのです。
合格したら遊べる、合格したらもう大丈夫、合格したら楽になる。
全部違います。合格したらもっともっと勉強しないといけない、合格したら今まで以上に厳しい、合格したら6年間、今までと同じように勉強し続ける。
これが事実です。
これが辛くて、灘、甲陽、神戸女学院、四天王寺、洛南、大阪星光などの学校を不登校になり、やめてくる子ども達を直接お預かりしてきた立場としては、
なぜ、中学受験させるのですか?
本当にそれはお子さんのためですか?
もう一度、真剣に考えてみてほしいと思うのです。